ごくごく一般的な家庭に生まれ育った。
父は寡黙なサラリーマンで、毎晩かならず酒を呑み、説教の時しか口を開かないような、ザ昭和人間だった。母はパートタイマーで、仕事に家事に東奔西走していた。住まいは幹線道路のほど近くにある、富士山が綺麗に見える事だけが自慢の、小さな団地だった。
あの頃の団地といえば、ペット禁止という規則が当たり前で、慎ましやかに生活している経済事情もミックスされ、動物と暮らすなんて到底叶わなかった。というより、動物がそばにいるなんていうラグジュアリーを想像すらしたこともない、というのが正しい。
小学校を卒業し、中学校の入学式を控えていた、身分も心も曖昧な春のある日。団地の近くの桜の木の下で、一匹の子猫を見つけた。恐らく捨てられていたんだろうと思う。
家に連れ帰っても飼う事は出来ない。両親に相談しても、反対され怒られるに決まっている。でも放ってはおけない。そう思った私は、誰に相談する事もできず、毎朝毎晩こっそりと桜の木の下に通い、子猫にご飯をあげていた。
今にして思えば、子猫を見つけた時、すぐに両親に相談して、動物病院に連れて行ってあげるべきだった。だけど、出来なかった。相談したらコテンパンに叱られて、二度と子猫に会えなくなる。そう思って出来なかったんだと思う。
90年代初頭の、インターネットも無い時代。幼かった私は、知識もお金も無いという状況にあって、「一人で何とかしなければ。」と気持ちだけは一丁前で、ご飯をあげさえすれば何とかなると思っていた。
数日が経過した、ある日の昼頃。子猫に会いたくて、鼻歌混じりで桜の木の下に向かった。いつもの場所に可愛い子猫。しかし様子がおかしい。抱き抱えてみると、少しも動かない。子猫は息を引き取っていた。「眠る様に」なんて言葉は聞いた事があったけど、本当にそんな風だった。
あれぐらい泣かないと、号泣って言っちゃいけないんだろうな、というくらい泣いた。悲しくて悔しくて寂しくて虚しくて、小さな亡骸を両手に抱きながら、ずっとずっと泣いた。太陽が沈みかけた頃、ようやく決心して、桜の木の下に子猫を埋めた。
目を腫らして帰ると、夕飯の支度をしている母にその理由を問われた。友達とケンカした、とか適当に答えた様な気がする。何か後ろめたい気持ちがあったのか、子猫のことは父にも母にも一切言えなかった。その日の夕飯は、大好物のコロッケだった。
子猫との別れを経験してから20年。相方と共にお店を持った。開店から5年が経った頃、父が他界した。ガンを患っていて、その治療のため長期入院中だった。コロナ禍で面会もままならず、最後の会話はiPhone越しのビデオ通話になってしまった。
幼い頃は、父の事をただただ怖い人だと思っていた。口数は少なく、笑顔もあまり見せず、いつもお酒を呑んでいて、何かと怒られていた記憶ばかり。大人と呼ばれる年齢になって、結婚し、お店を始めてからも、怖い父という印象はほとんど変わらなかった。
そんな父が、亡くなる数ヶ月前、母と共に我が家に遊びに来てくれた。父は我が家の猫を愛でながら、「小さい頃、桜の木の下で子猫にご飯あげてたよな。猫、昔から好きだったんだな。」と私に言った。
ふいに言われて、本当に驚いた。
父はちゃんと見てくれていたんだ、幼い頃の私のことを。知っていたんだ、あの子猫のことを。あんなに寡黙で怖い父が、最期の時が近くなって話してくれたこと。その言葉から溢れ出る偉大な優しさは、今もこれからもいつまでも、私を支えてくれる。
ずっと心に残っている、あの子猫を助けてあげられなかったという後悔。それがあるから、ここ10年で8匹も保護したのかな。普通に暮らしてるだけなんだけど、不思議と巡りあってしまう。今年はそういう可哀想な猫がいなければいいなと思いつつ、巡りあったら出来る限りの事はしてあげよう。
出来る限りをすると、残高は減る一方。だから我が家はますます貧乏で、ごくごく一般的な家庭にも昇進できない。そうなると相方に申し訳が立たないので、猫を保護したら、タイミーの短時間バイトかウーバーで頑張ろうと思う。
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